
ドイツにおける工作機械と切削加工の歴史について詳しく知りたくありませんか。
この記事を書いた私は工具メーカーでの営業・マーケティングの経験を活かし、切削工具と切削加工業界に特化した専門サイト「タクミセンパイ」を2020年から運営しています。
切削加工に関連した情報源を網羅的に確認し、独自の構成でまとめました。
本記事では第二次産業革命、ドイツの機械工業と工作機械、ドイツ工作機械産業の発展、ドイツ工作機械の敗北などについてまとめています。
この記事を読むことで、工作機械と切削加工の発展におけるドイツの貢献、歴史上の重要人物と発明について詳しく知ることができます。


ドイツにおける工作機械と切削加工の歴史
本記事では切削加工に関連した情報源を元に、ドイツにおける工作機械と切削加工の歴史についてまとめています。
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記事全体の流れとして、時系列を意識して構成しています。
参照した情報源によって年代表記が異なる場合があることをご了承ください。
参考文献

下記を参考文献とさせていただきました。
・ドイツ工作機械工業の20世紀:メイド・イン・ジャーマニーを支えて(著者:幸田亮一、出版:多賀出版、発売:2011年)
・19世紀末ドイツの工場(著者:今久保幸生、出版:有斐閣、発売:1995年)
・ドイツの産業革命:成長原動力としての地域(著者:フーベルト キーゼヴェター、出版:晃洋書房 、発売:2006年)
・ドイツ自動車工業成立史(著者:大島隆雄、出版:創土社、発売:2000年)
第二次産業革命
ドイツの初期製造業
イギリスで産業革命が起きた頃、ドイツは数十もの国家でできた連合体であり、政治・経済的に分裂していたため発展が遅れました。
当時のドイツはイギリスの綿製品を購入する状況で、輸出品としては小麦などであり、ヨーロッパにおいては農業国という立ち位置でした。
19世紀前半のドイツ機械製造は、主として繊維工業からの需要に支えられて発展していきます。
19世紀中期までは、ドイツにおいて専業化した機械工場はまだ少なく、注文があれば何でもつくる多品種少量製造の経営が圧倒的多数でした。
そんなドイツにおいて高度な専門技術をもった手工業の職人としては、錠前職、鍛冶職、指物職、大工職、時計製作職、楽器製作職が存在していました。
これらドイツの職人から、のちに多数の機械製造業の起業家が排出されました。
イギリスが1842年まで機械輸出禁止令を固守していたため、ドイツはイギリスなど他国へ視察を実施し、機械の模造などによって技術を少しづつ高めていました。
また、イギリスの専門労働者がドイツに働きに来ることで、そこから技術を手に入れていました。
鉄道建設によるドイツ発展
綿織物などの軽工業から始まったイギリスから数十年遅れ、1835年に始まる鉄道建設がドイツにとって最初の工業化となります。
ドイツは初めから重工業に力を入れ、鉄道や道路建設を国家事業として推進して成長しました。
機械製造工業は蒸気機関製作、機関車製作など鉄道建設からの需要で成長しました。
電機技術によるドイツ発展
1833年に電信装置が発明され、この装置が1850年以降ドイツの鉄道で急速に普及します。
電機技術工業は1860年代後半以降、ドイツ経済の新しい成長循環を生み出す引き金となります。
産業上画期的な最初の発明は、1866年にドイツの電気工学者・発明家であるヴァルナー・フォン・ジーメンスによる自励式自動発電機(ダイナモ)でした。
この原理は機械エネルギーを電気エネルギーに転換点する出発点となりました。
イギリスで起こった石炭をエネルギー源とする蒸気機関を利用した産業革命の過程をドイツは飛ばし、石油や電力を用いた重工業や化学工業を中心とした「第二次産業革命」で発展します。
教育機関への投資
国家政策として科学・技術を推進したこともドイツ発展の重要な要素です。
ドイツ各地に工業専門学校を整備し、科学・技術の専門教育を整備・充実させました。
ドイツの総合技術専門学校の学生は1871年の4,710人から1901年には1万6,590人に増加しました。
伝統的な技術に基づいて経験主義的に成長したイギリスは、工学の高等教育機関の整備がドイツより遅れました。
ドイツの機械工業と工作機械
イギリス技術中心に切削加工をしていた時代
1850年代はイギリスの時代といわれており、ドイツではイギリス製工作機械の模倣が目立ち、汎用の旋盤、ボール盤、平削り盤などが大量に製造されていました。
イギリスの工作機械を模倣しながら工作機械の技術・生産水準を高め、それらの技術がドイツを成長させました。
1860年代にはそれまでの工作機械の弱点を克服して、ドイツ独自の設計に基づき、フライス盤やラジアルボール盤など、様々な専用機械の製造が可能になりました。
1868年頃には、ドイツは機械の輸入国から輸出国に転換しました。
ドイツで産業革命(1834~73年)が進む中で、鉄道車両、繊維機械、蒸気機関等の機械製造業から工作機械製造業は分離し、急速に成長していきます。
1870年代から80年代半ばまでのドイツ工場は、機械加工の大部分が汎用工作機械で占められており、多数の機械の操作に熟練工が必要でした。
そして、熟練工による手仕上げとすり合わせ作業が欠かせませんでした。
また、当時のドイツでは精密工具等の補助的道具の使用が少ないこともあり、加工精度は一般的に低い状態でした。
アメリカ技術中心に切削加工をしていた時代
1870年代初頭から、ドイツではフライス盤やボール盤などアメリカ製工作機械を導入し、治具などの利用が進み始めました。
アメリカ製工作機械がドイツに導入されたことで、加工対象の取り付け・取り外しや機械操作が単純化し、非熟練工の配置もできるようになり始めます。
この時、ドイツでは基本的に多種少量の注文生産を主とした個別生産の体制をとっていました。
ドイツにおける生産技術面の進歩を当時最も明瞭に証明できたのが、工作機械の製造でした。
1876年にアメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会において、ドイツ工業製品を「安かろう、悪かろう」と評価したフランツ・ロイは、5年後の1861年に「ドイツ機械製造は品質においてイギリスの水準に完全に到達した」と評価するほど急速にドイツは成長しています。
その成長の背景は、ドイツでは多くの機械工場が自前の鋳鉄場をもっていたことなどがあげられています。
しかし、蒸気機関の製作を除いては当時ドイツよりアメリカの技術が上回っている状況でした。
フィラデルフィア万国博覧会で「精密作業のための木材加工・工作機械、歯車製作の自動機械、時計、ねじ、武器、ミシン、タイプライター、ドイツ工場では見たこともない精密測量器具、これらが大量に完ぺきな出来具合で出品されていた。このほかに工業のほとんどあらゆる分野の特殊船用機械が出揃っていた」とアメリカの技術が高かったことが記録されています。
1880年代半ばから90年代半ばにかけて、ドイツで専用工作機械が増加し、注文生産を主として市場見込み生産も含んだ多種中量生産が実現していきます。
ただし、部品の規格化や製品の標準化はまだドイツで進んでおらず、精密補助道具も広く用いられていませんでした。
ドイツにおいて製品が日常の消費対象となって大量生産の需要が生まれ、機械工の高価な個別作業に代わって機械による大量作業に代替されたことで、コスト削減のための量産がこの頃から進み始めたと考えられます。
1890年代半ばから1900年代初頭まで、ドイツにおいて電動機を用いた作業機や機械体系の改革が進みます。
ドイツで部品の規格化・標準化が進み、品種別の「半流れ作業」など、見込み生産を主とする少種大量生産へ移行していきます。
この時期のアメリカ工作機械は、奇跡といわれるほど生産力・コストに優位性があり、従来品の約2倍の生産能力を発揮しながら加工も正確という性能を持っていました。
大量生産用の専用工作機械の開発において、ドイツはアメリカと技術格差が大きい状況でした。
当時のドイツ機械加工は、0.005mmまでの精度を要求する検査などが実施されており、この精度によって互換性部品を実現していました。
これらの精度を実現するための検査には、ゲージなどが利用されていました。
ドイツにおいてもアメリカン・システムが導入されている工場がありました。
ただし、ドイツでは職業教育制度が整っており、多くの熟練工が存在していたこともあり、アメリカン・システムがそのままドイツに当てはまるわけではありませんでした。
ドイツ工作機械産業の発展
ドイツ国内における工作機械技術の発展
第一次世界大戦(1914年~1918年)がキッカケとなり、ドイツ工作機械の技術が発展しました。
その背景としては、アメリカ工作機械の輸入ができなくなったことがあり、ドイツ国内の技術が向上しました。
1920~1930年代はドイツ工作機械業界にとって受注が厳しい時期となりました。
その厳しい時期に、ソ連から大規模な工作機械の注文があったことで危機を乗り越えました。
1920年代ごろから工作機械の近代化が進み、1935~1945年はドイツにおいて機械加工が拡大する期間でした。
しかし、ドイツの工場に工作機械が質量ともに供給されていたものの、労働力不足などもあって需要に見合う生産性向上は実現できませんでした。
VDW(ドイツ工作機械メーカー協会)の誕生
1911年に結成したVDW(ドイツ工作機械メーカー協会)は、ドイツ工作機械の販路拡大や技術力向上、製品の型番を制限する定型化などに取り組みました。
VDWの取り組みによって過当競争を排除し、ドイツ工作機械の独自性を出して特化することを進め、アメリカからの遅れを取り戻します。
その後、競合関係にない工作機械メーカー間で連携を強め、1930年代にドイツからVDF旋盤が誕生しました。
ドイツから誕生したVDF旋盤の部品は規格化されており、モジュール生産方式を採用していました。
VDF旋盤は高性能であり、ドイツの工作機械は世界的な成功をおさめました。
のちに日本からVDF旋盤をモデルとしたベストセラー機として、池貝鉄工所のD型旋盤が誕生します。
自動車がドイツ工作機械産業をけん引
ドイツの機械産業の歴史は19世紀末の鉄鋼産業の急拡大を基礎として、造船などの重機械工業に対して独自の工作機械技術を発展させ、その後は自動車の大量生産によって成長していきます。
19世紀末から20世紀初頭に、ドイツの工作機械技術に集約される機械技術は第2段階に移りました。
ドイツの機械技術が第2段階へ移行できたのは、多数の複雑な機械部品からなる自動車の生産が工業として成立したからです。
自動車に必要な部品の加工に必要な多種にわたる数多くの工作機械が開発され、ドイツの自動車製造技術が急速に発展しました。
自動車製造技術のトップに立ったのはT型フォードを誕生させたアメリカですが、ドイツはそれに続きました。
1872年、ドイツ・ガス・エンジン工場株式会社が誕生し、同社はダイムラーを雇います。
ダイムラーは1869年当時、蒸気機関、蒸気機関車、蒸気ハンマー、タービン、工作機械製造で有名な会社で工場長を務めており、ドイツ・ガス・エンジン工場に技術担当取締役兼工場長として就任します。
ダイムラーの指導の下、工場を拡張し、従来の手工業的な作業場を近代的な機械製造工場に変えていき、のちのドイツ自動車メーカーのダイムラーにつながっていきます。
ドイツにおける自動車製造技術は、第一次世界大戦(1914年~1918年)で航空機・軍用車・戦車などの兵器にも活用され、この時の技術が精密化・大型化される形で第二次世界大戦に活かされます。
高級な自動車の生産を可能にしたのはドイツのマイスター制度でしたが、NC工作機械の導入によって仕事が減ることになりました。
世界一となったドイツ工作機械
1930年代後半にドイツ工作機械の生産能力が向上し、安定した供給ができるようになりました。
ナチス政権成立後の工業力強化政策により工作機械の生産が急増し、ドイツにおいては十分な工作機械が存在していました。
さらに占領国の工作機械を利用したり、スイス等から輸入することで、ドイツにおける兵器生産に生産力を回すことができました。
当時のドイツ工作機械メーカーはほぼすべての工作機械を製造することができ、アメリカと競争する力をもっていました。
1930年代、工作機械の輸出国としては上位からドイツ、アメリカ、2位と差をあけてイギリスとなりました。
ドイツは3国の中でも工作機械生産額の半分を輸出用とし、最大の取引先がソ連、続いて日本となっていました。
一方、アメリカの工作機械は内需が多く、輸入依存度がきわめて低くかったため、輸出比率は3国で最も低い状態にありました。
1945年にドイツは第二次世界大戦で無条件降伏します。
敗戦から約1年弱の間、ドイツにおいて工作機械生産がほぼ全面的に禁止されました。
ドイツで工作機械の生産が解禁された後も1938年水準の11.4%という厳しい制限があり、大型工作機械は生産が禁止されていました。
1950年代半ばにドイツでの工作機械生産が戦前水準に回復し、1950年代から60年代にかけて自動車や家電などの内需で工作機械の需要が増えました。
西ドイツの経済成長をリードした自動車・電機・光学機器・一般機械工業にとって、生産手段として不可欠なものが工作機械でした。
1950年の朝鮮戦争特需で、ドイツの工作機械の輸出が増えています。
ドイツの機械工業は19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリスの機械工業に追いつき、第一次世界大戦前にはアメリカと並ぶ先進機械工業国の地位になりました。
そして、第一次世界大戦前から1980年にかけて、ドイツがアメリカを上回る世界一の工作機械輸出国であり続けました。
アメリカと比較して、ドイツの工作機械は「多様化高品質生産」で「標準化された大量生産」と評価されていました。
自動盤など見込み生産をする工作機械メーカーがある一方、特殊な専用機を受注生産する工作機械メーカーも数多く存在していました。
ドイツ工作機械の発展を支えたもの
ドイツ工作機械の発展を支え、現代にも残るものを紹介します。
超硬合金の誕生
世界最初の「超硬合金」が1923年にドイツで誕生し、「ウィディア」と名づけられて鉄鋼メーカーのクルップ社から1926年に発売されました。
ハイスで26分、鋳造合金で15分かかっていた加工が、超硬合金によってわずか6分で切削加工できるようになり、歴史的な開発であったといえます。
超硬合金工具が誕生したことで、工作機械と刺激しあってお互いに性能が向上しました。
当時の超硬はWC(炭化タングステン / タングステンカーバイト)を超硬粒子とし、Co(コバルト)を結合剤としたもので脆く、鋼の切削には不適で、主に鋳鉄、黄銅に使用されていました。
一方で、当時の工作機械は強度、剛性、馬力が不十分であり、超硬工具の性能を十分活用できず、利用は限定的なものでした。
1930年代の後半に高馬力の機械が開発されはじめて、超硬工具が広く使用されるようになりました。
工作機械の検査基準誕生
1927年に登場したドイツ工作機械検査ブックは、当初ソ連向け工作機械の品質検査のための基準でした。
機械検査ブックは客観的な検査基準として世界最初の取り組みでした。
工作機械検査ブックはソ連向けだけでなく、ドイツ工作機械の検査規格として広がり、世界的な検査基準として各国にも翻訳されて利用されました。
EMOの誕生
占領費負担にあえぐイギリスは、占領地(その1つがドイツ)からの輸出復興を図ろうとしていました。
立地として選ばれたのが金属工場が撤去され、広大な敷地があったドイツのハノーファーでした。
1947年にドイツ経済復興のために最初の商品見本市がハノーファーで開催されましたが、この時はまだ機械製品は出展されておらず、機械が登場するのは1949年からでした。
1950年に欧州工作機械工業連盟が誕生し、各国の工作機械工業が連携して西ヨーロッパ全体を含む見本市としてEMO(世界工作機械展 Exposition Mondiale de la Machine-Outil)を1951年に開催しました。
第1回はパリでEMOが開催され、ここでドイツ工作機械工業の復活が世界に発信されました。
第2回としてハノーファーでEMOが開催され、その後は第3回としてブリュッセル、第4回としてミラノと続き、4都市においてEMOは持ち回りで開催されることになりました。
ドイツ工作機械の敗北
ナチス期の見習工制度によって育成された豊富な熟練工が労働者の中心となり、ドイツでは豊富な人的資源によって工作機械産業が発展しました。
さらに、伝統的な産学連携の中で育成された技術者、移住者や中小企業中心の工作機械メーカーがドイツ工作機械を支えました。
しかし、その後ドイツ工作機械は日本との競争力で負けることになります。
ドイツ工作機械の敗因をまとめています。
NC工作機械への対応
ドイツは精密で技術的に高度な工作機械を生産し、世界から高い評価を得ていた自信や誇りがあったため、画期的な技術革新への関心が薄れ、NC工作機械の対応で後れを取ることになりました。
また、ドイツの伝統的な技術の強さと熟練工も、NC化に対する遅れにつながったと分析されています。
加えて、ドイツでは従来型の工作機械(非NC工作機械)の需要が旺盛であり、納期が長期化して工場に余力がない状況でした。
西ドイツの技術開発の先頭にたっていた工業大学の研究所とVDW(ドイツ工作機械メーカー協会)においても、最初はNCへの関心が低かったようです。
ドイツはNC工作機械への対応に出遅れますが、後にその革新性に気付き、大学の研究所とメーカーが協力して導入を進めました。
さらに、日本が小型・中型の量産タイプのNC工作機械やマシニングセンタの生産に集中したのに対し、西ドイツは高級NC工作機械や大型マシニングに重点を移していました。
これはドイツとして日本の動向を見た上で、高品質・高価格の機種に絞った差別化戦略で、ドイツ工作機械の国際競争力を取り戻そうと考えたからです。
ドイツ工作機械の敗因は、熟練工が多く存在していたこと、需要が多くある中で新市場に目を向けることができなかったことで、イギリスに近いと考えます。
編集長コメント
「ドイツにおける工作機械と切削加工の歴史」いかがでしたか。
機械・工学・精密などをテーマとした書籍含め、切削加工に関連した情報源を網羅的に確認し、独自の構成でまとめてみました。
タクミセンパイとしては切削工具の歴史をたくさん紹介したいところではありますが、切削加工の歴史の多くは工作機械に関する内容であり、工作機械が中心となっています。
切削加工業界に携わるすべての方が楽しめる内容を目指し、専門的な内容は最小限に抑え、歴史上の重要人物と発明を中心に紹介しています。
この記事を直接業務に活用するのは難しいかもしれませんが、工作機械と切削加工の理解を深める上で重要な内容であると考えていますので、参考にしていただけると嬉しいです。
「イギリスにおける工作機械と切削加工の歴史」「アメリカにおける工作機械と切削加工の歴史」とあわせて読んでいただくと、発展や失敗の違いを比較して学ぶことができるため、あわせてご活用ください。


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執筆者情報

本記事はタクミセンパイの服部が執筆・編集しました。
私は工具メーカーでの営業とマーケティングの経験を活かし、切削工具と切削加工業界に特化した専門サイト「タクミセンパイ」を2020年から運営しています。
私(服部)の実績や経歴については「運営について」に記載しています。
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