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【世界で戦う日本企業】切削工具の歴史と切削工具メーカーの発展

切削工具と切削加工業界の情報を発信するポータルサイト「タクミセンパイ」をご覧いただきありがとうございます。
当サイトを運営する編集長の服部です。

本記事では「切削工具の歴史と切削工具メーカーの発展」について解説しています。
「切削工具の歴史と、世界で戦う日本の切削工具メーカーの発展」について理解が深まる記事を目指して執筆しました。

【記事の信頼性】
本記事を書いた私(服部)は2014年から切削加工業界に携わり、2020年から「タクミセンパイ」を運営しています。

工具メーカーで営業として500社以上の切削工具ユーザー(工作機械で切削加工されている方)に訪問し、技術支援をさせていただきました。
また、マーケティングとして展示会とイベントの企画・運営、カタログとWEBサイトの大型リニューアルプロジェクト、ブランディングプロジェクトを経験しました。

営業とマーケティングの経験をもとに、切削加工業界で働く皆さまに向けて本記事を執筆しています。

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切削工具の歴史

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切削工具の歴史を作成するにあたり、「工具業界に限りなき愛をこめて(著者:大田和国男 / 発行所:商工経済新聞社 / 1994年初版発行)」と、「切削加工の基本知識 (著者:小坂弘道 / 発行所:日刊工業新聞社 / 2007年初版発行)」の切削工具の歴史概要を参考にしました。

「工具業界に限りなき愛をこめて」著者の大和田様は不二越の社長を務められ、日本工具工業会理事長を担当された方です。
「切削加工の基本知識」著者の小坂様は宮野製作所(現アルプスツール)入社後、サンドビック コロマント事業部に入社された方です。

「工具業界に限りなき愛をこめて」「切削加工の基本知識」の他、三菱マテリアルの切削工具の歴史、タンガロイのタンガロイの歴史、住友電工ハードメタルのイケダロイの歴史に記載された情報などを参考にしました。

炭素工具鋼・ミュシェット鋼

世界の歴史

19世紀に様々な鉄や鋼の製造方法が開発され、切削工具向けの「工具鋼」が誕生しました。
しかし、切削速度 数m/minでも発熱によってすぐに軟化していまうため、鋼の加工には不適であり、ねずみ鋳鉄、錬鉄、青銅など限定的な用途でした。
そこから、マンガンやタングステンを添加した、ハイス材に近い「ミュシェット鋼」が開発され、切削速度 10m/min程度の切削が可能になり、旋削の生産性が2倍になりました。

日本の歴史

日本においては、明治20年頃(1887年頃)に炭素鋼のドリルが輸入されるようになりました。


ハイス(高速度工具鋼)

世界の歴史

アメリカのF・W・テーラーおよびホワイトの2名が1897年に「ハイス(高速度工具鋼)」を開発しました。
1900年のパリ博覧会で「ハイス工具」が展示され、切削速度40m/min、送り1.0㎜、切込み4.8㎜の加工条件で、軟鉄の加工実演が行われました。

鉄より硬い鉄、ハイスの発明により鉄を削る切削工具が飛躍的に進化し、切削工具の高速化が始まりました
切削工具の高速化により、これまでの工作機械が使いものにならなくなり、より高性能な機械の開発が必要になりました。

日本の歴史

日本においては明治40年代(1907年頃)に、池貝鉄工所(現:池貝)、呉海軍工廠(こうしょう, 軍隊直属の軍需工場のこと)、神戸製作所で輸入ハイスを使ったドリルが製作されています。

同じ頃、八幡製鉄所、呉海軍工廠の製鋼部、安来製鋼所(現:日立金属)、日本特殊鋼(現:大同特殊鋼)が国産ハイスの試作を進めており、その中から専門メーカーとして日本特殊鋼が先陣を切りました

鋳造合金

1915年頃、コバルト、クロム、タングステンを主成分とする「鋳造合金」が開発されました。

成分は超硬に近く、硬質炭化物を50%含む鋳造材であり、非常に硬く、800℃程度の高温まで耐えられるものでした。
しかし、非常に脆く(ハイスの約半分の靭性)、工具としては成形が難しいという課題がありました。

超硬合金

世界の歴史

世界最初の「超硬合金」が1923年にドイツで誕生し、「ウィディア」と名づけられて鉄鋼メーカーのクルップ社から1926年に発売されました。
ハイスで26分、鋳造合金で15分かかっていた加工が、超硬合金によってわずか6分で加工できるようになり、歴史的な開発であったといえます。

アメリカのGE社がクルップ社から特許を購入し、「カーボロイド」の名称で超硬合金を1927年に販売開始しました。

当時の超硬はWC(炭化タングステン / タングステンカーバイト)を超硬粒子とし、Co(コバルト)を結合剤としたもので脆く、鋼の切削には不適で、主に鋳鉄、黄銅に使用されていました。
しかし、当時の工作機械は強度、剛性、馬力が不十分であり、超硬工具の性能を十分活用できず、利用は限定的なものでした。

1930年代の後半に戦争が勃発し、高馬力の機械が開発されはじめて、超硬工具が広く使用されるようになりました。

その後も開発が続けられ、1930年代はじめにWC(炭化タングステン / タングステンカーバイト)を第1層、Tac(タンタルカーバイト)/NbC/TiC(チタンカーバイト)などを第2層、Co(コバルト)を第3層とした、鋼用の超硬(P種)のWC-Co-TiC系合金が開発されました。

1970年代後半にはアルミナやチタン化合物を被覆したコーティング超硬工具が開発され、さらに高速加工が可能になりました。

日本の歴史

「ウィディア」発売から3年後の1929年に芝浦製作所(現:タンガロイ)が超硬合金の開発に成功し、1930年に「タンガロイ」の名前で商品化しました。
名称は、焼結炭化物合金(タングステン+アロイ)を由来としています。

同じ頃、東京電気が「ダイヤロイ」の商標名で超硬合金の販売を開始しており、同じような製品を販売していたことから芝浦製作所と東京電気が共同出資で1934年に「特殊合金工具株式会社」を設立し、日本で初めて超硬合金の専門企業が誕生しました。

1931年に三菱金属鉱業(現:三菱マテリアル)が超硬合金の製造を開始し、住友電気工業(現:住友電工ハードメタル)が超硬切削用バイトを商品化して「井ゲタロイ」が誕生しました。

セラミック

1930年代、セラミックを切削工具として使用する研究がソ連やアメリカなどで始まりました。
しかし、当時のセラミックは非常に脆く、全く使用することができませんでした。

チップとして広く開発されるようになったのは、1950年代になってからです。

サーメット・CBN・ダイヤモンド

サーメットは1960年の日本の国際見本市で出品され、それ以降日本を中心に開発が進められました。
サーメット工具はジェットエンジン材料の開発から生まれたチタン系硬質相を主成分としています。
鋼との反応性が低く、美しい仕上面が得られることから、切削工具の材料の1つとして独自の進化をしています。

切削において、切削工具の工具は被削材の硬度の3倍程度必要とされています。
被削材が焼き入れ等によって高硬度化・難削化にするのにあわせて、高硬度のCBN(立方晶窒化ホウ素)焼結体やダイヤモンドが必要になりました。

CBNや多結晶ダイヤモンドを使った切削工具は、1980年以降に製品開発されるようになりました。

切削工具材質の変遷

炭素工具鋼から始まった切削工具材質の変遷を、横軸を時代、縦軸を切削速度(能力)としたグラフが下記です。
こちらは、住友電工ハードメタルが執筆した「切削工具用材料の開発の歴史と将来展望 (2013)」を参考に作成いたしました。

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炭素工具鋼誕生から合金工具誕生までの100年で、切削速度は2倍程度しか成長していません。
一方、ハイス(高速度工具鋼)誕生からCBN誕生までの100年は、切削速度が約40倍と飛躍的に成長していることがわかります。

日本の切削工具メーカーの発展

日本の切削工具メーカーの発展において、下記3点の影響が大きかったと考察します。

  • 軍需(戦争向けの需要)
  • 機械工具販売店の協力
  • ハイスと超硬合金の誕生

軍需(戦争向けの需要)

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1900年以前の日本は、切削工具を輸入に依存しており、技術の発達が遅れていました

1904~1905年の日露戦争を契機に、機械工業や工具の重要性が見直され始めました
ただ、当時切削工具が利用されていたのは工廠(こうしょう, 軍隊直属の軍需工場のこと)・鉄道工場・造船所などで、輸入工具か自家製工具でした。

日本の切削工具は輸入品を模倣することから始まり、世界に輸出される高品質な製品に成長していきました。
明治から大正(1868年~1926年)にかけて、艦船・兵器・車輛・発電・航空機・自動車に使用する特殊工具の開発が進み、技術力が向上しました

国産切削工具の誕生において、園池製作所が切削工具創始期から業界の発展に大きく貢献しました。
園池製作所の前身である池田工具製作所 創業者の池田辰衛氏は、1906年に米国に渡ってプラット&ホイットニー社に入社し、機械加工・仕上げ・組立て・刃物の作り方・工作機械の設計技術を取得しました。
池田はドイツ・ロシアを回って1909年に帰国して、工作機械と切削工具づくりに励みました。
その後、池田は1914年に園池製作所を設立し、ドリル・ミーリングカッタ―・リーマ・ドリルチャックなどを製作して主に軍の工廠(こうしょう)に販売しました。

1931年に満州事変が勃発し、軍需景気がもたされ始めました
1938年頃から軍需で切削工具の生産が増えていき、太平洋戦争が始まった1942年頃には航空機や兵器の増産に追われて、生産が間に合わないまでに需要が急増しました。
この頃、ユーザーは超硬工具を使いこなせておらず、工作機械も超硬工具の性能を十分発揮できる性能を持っていませんでした
そこで軍の依頼により、1943年頃になってタンガロイ・住友電工・三菱金属の3社は技術指導班を組み、各工廠(こうしょう)に出向いて技術指導を実施しました。

日本の切削工具メーカー誕生に貢献した人物として、米プラット&ホイットニー社で工具製造を修行し、呉海軍工廠(こうしょう)の製鋼部に所属して工具の研究をしていた日根野太作技師がいます。
日根野の周辺からは、宇都宮製作所などの民間の切削工具メーカーが多く誕生しました。

軍需によって切削工具づくりの技術力が向上し、国産化が進んだといえます。

機械工具販売店の協力

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日本の切削工具メーカーの成長に、機械工具販売店の存在は欠かせません。

機械工具販売店の歴史は切削工具メーカーより古く、幕末時代のオランダからの機械や工具の輸入に始まり、イギリス・フランス・ドイツなどのヨーロッパ製品の取り扱いで成長ていきました。

特に大きな変換点が、米国系商社のF・W・ホーン商会が、第五回内国勧業博覧会(1903年)に大量の工作機械・工具・器具など3,200点を出品したことです。
3,200点すべての商品を実演したことで日本国民に衝撃を与え、第五回内国勧業博覧会開催以降に機械や工具の輸入量が増え、機械工具販売店の数も増加しました

また、第五回内国勧業博覧会を契機に、日本の生産技術が幕末のオランダ方式、明治初期の英国などのヨーロッパ技術から、米国技術に移行していきました。
生産技術の変化が切削工具メーカーに与えた影響は非常に大きなものでした。

第一次世界大戦(1914年~)の影響で輸入工具の入手が困難になったことで、国内の切削工具メーカーが力をつけていき、機械工具販売店も国産工具を取り扱うようになりました

つまり、輸入工具の取り扱いから機械工具販売店が増加し、戦争で国内の切削工具メーカーが成長したことで、国産工具の流通が確立したと考えられます。

ハイスと超硬合金の誕生

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ハイス(高速度工具鋼)と超硬合金の誕生が、切削工具を飛躍的に発展させました。

前述したように、日本では明治40年代(1907年頃)にハイス国産化の取り組みが始まり、切削工具の主力がハイスとなりました。
日本において、ハイス工具がトップの座を超硬工具に譲ったのは1976年です。
明治40年代(1907年頃)から70年近く切削工具の市場をリードしたことになります。

下記は2006年~2020年の工具材料別の生産高推移です。
超硬工具の生産高は全体の約7割を占めており、ハイスを含む特殊鋼工具の約3倍まで成長しています。

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代表的な日本の切削工具メーカーの誕生を時系列にまとめてみました。
(必ずしも誕生=設立や創立ではなく、切削工具に関連する事業の開始時期で作成)

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超硬合金がドイツで初めて販売開始された1926年とほぼ同じタイミングで、日本で切削工具メーカーが誕生し始めたことがわかります。

超硬合金は1926年にドイツで発売されたのがはじまりですが、今年(2021年)で95周年です。
新たな工具形状やコーティングの開発によって超硬工具は進化を続け、95年も切削工具業界をリードしていることになります

日本はハイスと超硬合金の国産化を進め、高品質な切削工具を世界に提供できるまで成長しました。

編集長コメント

「切削工具の歴史と切削工具メーカーの発展」いかがでしたか。

かなりマニアックな内容も含めて記載しており、切削工具の歴史と切削工具メーカーの発展についてここまでしっかりまとまった資料は他にないのではないかと思います。

これらの情報を直接業務で活用するのは難しいかもしれませんが、切削工具の理解を深める上で重要な情報であることは確かであるため、知っておいていただけると嬉しいです。

まとめ

  • 切削工具の材質は、炭素工具鋼→ミュシェット鋼→ハイス(高速度工具鋼)→鋳造合金→超硬合金と発展していった
  • ハイスの発明により鉄を削る切削工具が飛躍的に進化し、切削工具の高速化が始まった。切削工具の高速化で、これまでの工作機械が使いものにならなくなり、より高性能な機械の開発が必要になった
  • 超硬合金によって加工のさらなる高速化が進み、歴史的な開発となった。当時の工作機械は強度、剛性、馬力が不十分であり、超硬工具の性能を十分活用できず、利用は限定的なものであった
  • ドイツで超硬合金が発売されて3年後の1929年、芝浦製作所(現:タンガロイ)が超硬合金の開発に成功し、1930年に「タンガロイ」の名前で商品化された
  • 日本の切削工具メーカーの発展には、「軍需(戦争向けの需要)」、「機械工具販売店の協力」、「ハイスと超硬合金の誕生」の3つが大きく影響したと考察した
  • 日本の切削工具は輸入品を模倣することから始まり、世界に輸出される高品質な製品に成長していった
  • 明治から大正(1868年~1926年)にかけて、艦船・兵器・車輛・発電・航空機・自動車に使用する特殊工具の開発が進み、技術力が向上、切削工具の国産化が進んだ
  • 輸入工具の取り扱いから機械工具販売店が増加し、戦争で国内の切削工具メーカーが成長したことで、国産工具の流通が確立した
  • 日本はハイスと超硬合金の国産化を進め、高品質な切削工具を世界に提供できるまで成長した

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